ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2005年6号
判断学
会社は誰のものでもない

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

奥村宏 経済評論家 第37回 会社は誰のものでもない JUNE 2005 54 一連のライブドア騒動は、われわれに「会社は誰のものか」という問いを 投げかけた。
しかし、そもそも会社とはモノなのだろうか? あるいはヒト として考えるべきなのだろうか? 株主主権の原則 ライブドアが買占めたニッポン放送株をフジテレビに引渡 すことでひとまずライブドア騒動は解決したが、二月八日か ら始まって四月一八日に解決するまで連日、テレビや新聞、 週刊誌が報道して、日本列島全体がまるでこの騒動で持ち 切りだった。
終わってみれば、あっけない話で、要するにラ イブドアは値ザヤ稼ぎのために、株を買い占めたグリーン・ メーラーに過ぎなかったのではないか、とみる人もいる。
しかしこの事件が問いかけたものは、単に株の値ザヤ稼ぎ ということではなく、会社の株式を買占めて会社を乗取ると いうことはどういうことか、ということであった。
株を買占 めれば会社を自分のものにできるということをホリエモンは 誰にはばかることもなく堂々と実行したのではないか。
こんな見方がテレビや新聞を通じて拡まったところから、 改めて「会社は誰のものか」ということが大きな問題になっ てきたのである。
株式会社の最高の決議機関は株主総会であり、その株主 総会は株主平等(一株一票)、資本多数決の原則に立って運 営される。
ここから株主主権という考え方が生まれ、株式の 過半数を買占めることによって会社を支配することができる ということになる。
これが十九世紀なかばに確立された近代 株式会社の原理で、そこから株式の買占めによる会社乗取 りは自由であるという考え方が生まれ、そして現実にも会社 乗取りが盛んに行われるようになった。
問題は、株式を買占めたからといって、会社はその人のも のになったといえるのか、ということである。
もしホリエモ ンがニッポン放送の株を買占めたからといって、ではホリエ モンがニッポン放送の建物に入って「これは俺のモノだから、 みんな出ていけ」といえるのか、ということである。
誰もそ んなことは考えない。
会社の土地や建物は会社のものであっ て株主のモノではない。
会社は経営者のものか ライブドア騒動で大きな問題になったのは敵対的乗取り と友好的乗取りの区別だった。
アメリカでは会社がTOBを かけられた時、それが敵対的TOBか、友好的TOBか、と いうことが大きな問題になる。
そしてそれまでは友好的TO Bが多かったのだが、一九八○年代には敵対的TOBが多く なったといわれる。
ライブドア事件の場合でも、「黙って会社を乗取るのは許 せない」という意見が多かった。
その場合「黙って」というのは経営者に対してで、もしニ ッポン放送の経営者に事前に申し出ておればよいのか、とい うことになる。
アメリカのTOBの場合、それを受けた会社の取締役会がこれを受ければ友好的とみなし、株主に対してそのTOBに 応じるように勧告する。
そうでない場合には株主に対してこ のTOBには応じるな、と勧告する。
前者が友好的TOBで、 後者が敵対的TOBである。
ということは友好的か、敵対的か、を決めるのは経営者 だということになるが、では、会社は経営者のものなのか、 ということが問題になる。
ニッポン放送の経営者がライブドアの乗取りは敵対的だ と言ったのだが、ではニッポン放送は経営者のものですか、 と聞かれたらどうするのだろう。
この事件で明らかになったようにニッポン放送の経営者は 会社をまるで自分たちのものであるかのように、あるいはフ ジテレビの日枝会長のものであるかのように振舞った。
大株主でもなんでもない経営者がまるで会社を自分たち のものであるかのように言う。
それは経営者による会社の私 物化で、経営者が会社を盗んだのと同じではないか。
会社 の代理人でしかない経営者が「会社は自分のものだ」と考 えてよいのか。
55 JUNE 2005 会社はヒトでもモノでもない ではいったい会社は誰のものなのか。
岩井克人東大教授 は「会社はモノであると同時にヒトである」と主張している。
会社の株式を所有するということは会社がモノであるからで あり、そして会社が株式を所有するのは会社がヒトであるか らだ、というのである。
岩井氏が書いた「会社はこれからど うなるのか」(平凡社)という本でもそのことが書かれてお り、岩井氏の会社論のキーワードになっている。
しかし会社はモノでもなければヒトでもない。
株式会社は もともと個人がカネを出し合って作ったものであり、法律上 は社団法人とされている。
それは同好者が集まって作ったス ポーツクラブや旅行クラブなどのような同好会と同じだし、 あるいは政党と同じような組織であり、それは誰かのモノではない。
人間が遊ぶために作ったのが同好会で、政治活動 のために作った団体が政党なら、カネ儲けのために作ったの が会社である。
会社はこのように人間がカネ儲けのため、あるいは仕事を するために作ったものであり、それはあくまでも機能的なも のである。
ところがその会社を人間から離れた一個の実体と 考えるようになった。
これがドイツでは「会社それ自体」と いう考え方として普及したが日本では会社本位主義という ことになった。
もともと会社は誰のものでもない。
人びとが金儲けのため、 そして仕事をするために作った組織だが、これが人間から離 れて、上から人間を支配するような実体になった。
これは人間の自己疎外だが、これから脱するためには会社 を機能としてとらえる必要がある。
人びとの働き方に合わせ ていろいろな企業を作っていく。
これが二十一世紀の企業 像だが、それには「会社は誰のものか」という考え方自体を 変えていく必要がある。
会社は誰のものでもない。
それは人 びとが働くための場、あるいは機関にすぎない。
おくむら・ひろし 1930年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
近著に『最新版 法人資本 主義の構造』(岩波現代文庫)。
従業員の共同体か 日本は人本主義であるというのが一橋大学教授の伊丹敬 之氏の主張である。
日本は資本主義ではなく、人本主義で あると彼は言うのであるが、これは「会社は従業員のもので ある」という考え方である。
R・ドーアはイギリスやアメリカの会社は「会社法モデ ル」だが、日本の会社は「共同体モデル」だと言い、日本の 会社は従業員の共同体だと主張した。
もしそうであるとするなら、主権者である従業員が社長を 決めるのでなければならない。
会社が従業員のものであるな らば、その経営者を決めるのは従業員でなければならないが、 そんな会社は日本にはない。
ヨーロッパには従業員がみんなで株式を所有し、従業員 持株会が大株主になっているという会社がある。
スウェーデ ンなどの北欧諸国ではこのような従業員持株会が大株主に なっている会社が多いが、同じようなことはイギリスやアメ リカにもみられる。
倒産したアメリカの航空会社アメリカ ン・エアラインなども労働組合が大株主になっている。
ドイツでは共同決定法によって監査役の半数は従業員代 表ということになっている。
ドイツの監査役(アウフジヒツ ラート)は日本の監査役と違って、監査役会が取締役を決 める権限を持っており、重要な支配力を握っているのだが、 その半数は株主代表で、残り半数は従業員代表である。
そこでは従業員は会社の半分を支配していると言っても よいが、日本ではそんな制度はない。
日本の会社で従業員 が取締役や社長を決めるというような会社はない。
それでも日本の会社は人本主義で、日本の会社は共同体 であるといえるのか、おそらくそんなことを信じる人は誰も いないだろう。
従業員は会社に忠誠をつくしているけれども、会社を従 業員のものだと考えているような人はいない。

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