ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2002年10号
判断学
経営者の責任観念

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

奥村宏 経済評論家 第5回 経営者の責任観念 OCTOBER 2002 70 経営者の責任観念 日本ハムの事件が表面化した段階で大社社長は「事件は 現場が独断でやったことで、私は知らなかった」と言って いた。
そして東副社長や庄司専務などの経営陣が関わって いたことが明らかになっても、「私は知らなかった」と言い 通している。
ここに無責任経営の本質があらわれている。
こ のようなことを社長が知らなかったとしたら、知らなかった ことの責任が問われるということが分かっていないのである。
もっとも、後に社長から専務に降格するという人事を発表 した時、「社長としての監督責任は免れない」と言っている が、これまたおかしな話だ。
社長は経営者ではなく監督者で あると思っているのである。
監督するのは監査役の仕事であ って、社長には経営責任があるということが分かっていない。
しかし、これはなにも日本ハムに限られたことではなく、多 くの会社で社長は部下を監督する者だという考え方が強い。
かつて富士通の社長が「会社の経営が悪いのは従業員が働か ないからだ」と放言して問題になったことがあるが、多くの 日本の経営者は同じような考え方をしているのではないか。
会社の経営が悪いのは経営者の責任であって、従業員が働 かないのも経営者の責任である。
牛肉偽装事件のような重要 なことを知らなかったとすれば、知らなかったことの責任が 経営者にはある。
日本ほど経営者の責任がないがしろにされた国は他にはな いのではないか。
経営者は企業の社会的責任とか、従業員に 対する責任ということを言うが、経営者の責任がどういうも のか、ということについて全く考えていなかったのではない か。
なぜこんなことになったのだろうか。
これは経営者のモラ ルが低下したためだろうか、それとも構造的な問題が背後に あって、それがこうした経営者の意識になってあらわれたの であろうか。
日本ハムの事件 雪印食品に次いで日本ハムでも牛肉偽装事件が発覚して 大問題になり、大社啓二社長が専務に降格することになっ た。
雪印食品の事件が起こった時、誰でも考えるのが、他社 も同じようなことをやっているのではないか、ということだ った。
この当然の疑惑に答えようとしなかった農水省の責任が問 われるのだが、当の武部農水相は全く他人事のように日本ハ ムの経営者を叱りつけているだけだ。
日本ハムの牛肉偽装が表面化したのも内部告発によるもの だが、日本ハムの経営者はおそらく内部告発など起こるはず がないと考えていたのではないか。
雪印食品の事件が表面化 した時、大社社長は「当社にはそんなことはあるはずもない」 と言っていたが、まさか内部告発でバレるなどとは考えても いなかったのであろう。
この事件の本質は従業員の間で会社本位主義が崩れている にも関わらず、経営者や中間管理層では依然として会社本位 主義が残っており、そのギャップがこういう形であらわれた ということである。
このことは今シリーズの第二回「内部告 発の倫理学」で雪印食品について述べたところだが、同じこ とが日本ハムでも起こったということである。
そして事件が表面化してからの会社側の対応を見ると、雪 印食品より日本ハムの方がもっと悪く、ぶざまな対応ぶりを 見せている。
雪印食品に比べ日本ハムの方が業界でのシェアも高く、食 品業界での地位も高いのだが、雪印食品の事件からこの会社 はなにも学んでいなかった。
これには日本ハムが大社一族の 同族会社的色彩が濃いということもあるが、しかしこれは同 族会社だけに限られた問題ではない。
それはまた食肉業界だけの特有な話ではなく、日本の大企 業、株式会社に共通するものである。
雪印食品に続き、日本ハムでも食肉偽装事件が発覚した。
戦後の高度経済成長を支えた 法人資本主義はもはや通用しない。
会社本位主義も若い層を中心に崩壊している。
それでも 経営者たちは依然として無責任経営を変えようとしない。
そこから悲劇が生まれている。
71 OCTOBER 2002 無責任資本主義の構造 法人資本主義の構造が会社本位主義という原理を生んだと いうのが私の多年の主張だが、この法人資本主義という構造 が無責任経営を生んでいるのだ。
このことを私は一九七五年に出した『法人資本主義の構造』 (日本評論社)という本で明らかにし、その後、一九九八年 に出した『無責任資本主義』(東洋経済新報社)でこの議論 を発展させた。
もともと責任というのは自然人である人間がとるもので、 法人=会社には責任という観念がない。
責任の主体は意識の ある人間であって、意識があるのは頭脳がある人間に限られ る。
法人=会社は法律によって人格を与えられているが、身体 もなく頭脳もなく、意識もない。
そういう法人=会社が責任 をとることはできないし、もともと責任という観念がない。
ところが戦後の日本では法人=会社が主人公になって、経 営者はその会社の分身のような存在になった。
資本家は会社 を自分のものだと考えているのに対し、経営者は会社に所属 するものだと考えている。
そこで経営者は会社のために一生懸命にやったのだから、 たとえそれが失敗しても責任はないと考える。
主体はあくま でも会社であり、その会社は法人として責任観念がないのだ から、その会社に所属している経営者にも責任はないと考え る。
雪印食品の場合もそうだが日本ハムの場合もすべて会社の ためにやったことであり、それが失敗したとしても責任をと る筋合いにはないと経営者は考える。
法人資本主義という構造がこのように無責任経営を生み出 したのである。
これは単なる経営者のモラルの問題ではない。
基礎にある構造を変えない限り、経営者の意識は変わらない し、無責任経営も直らない。
おくむら・ひろし 1930年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
主な著書に「企業買収」「会 社本位主義は崩れるか」などがある。
高度成長をもたらしたもの 会社のために一生懸命にやったのだから、失敗したとして も経営者に責任はない。
こういう会社本位主義の思想が実は 日本経済の高度成長をもたらしたのである。
株式会社である以上、自己資本を無視して借金をすること は許されない。
もし会社が倒産したとき、責任をとることが できるのは自己資本の範囲内でしかないからだ。
ところが、戦後の日本の企業は自己資本を全く無視して銀 行から借金をし、これで設備投資をした結果、日本経済は高 度成長した。
川崎製鉄の西山弥太郎社長がその先駆者といわ れるが、借金経営による設備投資が成功したために、日本の 大企業はみなこれにならった。
これが一九五五年からの日本経済の高度成長をもたらし、そして一九七〇年代の石油危機もこれによって乗り切った。
そしてさらにその後のバブル経済をもたらしたのもこういう 会社本位主義の無責任経営だった。
ところが一九九〇年代になってバブルが崩壊し、法人資本 主義の構造が崩れ始めた。
そうなると法人資本主義という構 造の上に立った会社本位主義=無責任経営が通用しなくなっ た。
従業員、とりわけ若い層から会社本位主義が崩れ、社会 もまたそれを受け入れている。
にも関わらず経営者の意識だけは変わらない。
このギャッ プが雪印食品や日本ハムの事件となってあらわれているのだ が、それは単に食肉偽装事件だけにあらわれているのではな い。
証券スキャンダルや総会屋事件、ゼネコン汚職などの事 件でも経営者の無責任さが大きな問題になったし、また銀行 の不良債権問題でもそれは大きくクローズアップされている。
もはや無責任経営は社会的に通用しなくなっているにも関 わらず、経営者の意識は依然として変わらない。
このことが 会社に大きなダメージを与えることになっているのに経営者 にはそのことがわかっていない。
これは悲劇と言うしかない。

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