ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2004年7号
判断学
三菱の強さと弱さ

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

奥村宏 経済評論家 第26回 三菱の強さと弱さ JULY 2004 56 グループ企業同士が株式を持ち合って外部を排除する構造のなか、三菱自動 車の隠蔽体質は温存されてきた。
事態がここまで悪化しても、グループをあげ ての支援体制に変わりはないようである。
三菱財閥首脳のこの判断は正しいの だろうか。
三菱自動車の事故かくし 三菱グループのあり方が問われている。
日本最大で最強の企業集団として三菱グループは戦後の 日本経済に君臨してきた。
その三菱グループのあり方が問わ れているということは、とりも直さず日本企業のあり方が問 われているということでもある。
三菱自動車はアメリカでのセクハラ事件(一九九六年)、 総会屋への利益供与事件(一九九七年)、そして二〇〇〇年 に起こった欠陥車のリコールかくし事件と、これまで不祥事 を繰り返してきたが、今回明らかになった大型トラックのタ イヤ脱落の事故隠し事件は決定的なダメージを与えた。
それは会社ぐるみ、しかもトップが率先して事故かくしを はたらいていたという悪質な事件で、本来なら会社そのもの の存続が問われるはずのものである。
起訴された宇佐美隆前三菱ふそう会長は事故発生当時は 三菱自動車の副社長で、二〇〇〇年に横浜でタイヤ脱落事 故が起こった際、対策会議でトラックの整備不良という虚 偽の報告をすることを決めた責任者だという。
かつて三菱銀行頭取から日本銀行総裁になった宇佐美洵 氏の甥に当り、もう一人の伯父は宮内庁長官だったという ?華麗なる一族〞である。
それだけに強い自信を持って三 菱自動車をリードしてきたのだろうが、いかにも三菱グルー プらしい企業風土を反映している。
昔から「人の三井、組織の三菱」といわれてきたが、組 織優先、ということは会社大事で、消費者軽視ということ でもある。
これが三菱グループの官僚的体質となってあらわ れているのだが、しかしこの会社本位のやり方が戦後日本の 経済成長にピッタリだった。
産業構造が重化学工業化する段階でそれは大きな威力を 発揮したのだが、産業構造がソフト化し、情報化していくな かで、もはやそれは時代にあわなくなった。
しかしそのこと が全く認識されていない。
そこに三菱の悲劇がある。
ダイムラーの出資拒否 三菱自動車が三菱重工業から分離して独立したのは一九 七○年だった。
当時は、三菱グループが自動車に進出する ことについては多くの反対があった。
その反対を押し切って、 アメリカのクライスラーと資本提携することでスタートした が、意外にもそれが成功した。
というのも日本の自動車産業がテイク・オフ段階に入っ たという幸運と外資と提携することでイメージを変えること ができたからであるが、しかしそれがアダとなっていく。
いったん提携したクライスラーとの関係は切れたが、その 後ダイムラーがクライスラーを買収したところから再び外資 との関係ができた。
この外資頼みの経営はそれまでの官僚的、そして重厚長大型という三菱グループのイメージを変えるの に貢献した。
しかしそのダイムラーが最後になって三菱自動車への出資 を断ってきたところから三菱自動車は経営危機に陥った。
そ れがちょうど欠陥車事故と重なったために、ショックは大き かった。
それはもはや三菱自動車の問題だけでなく、三菱グ ループ全体のあり方にかかわる問題となった。
最後はダイムラーが助けてくれるだろうという安易な経営 陣の判断が大変な誤りを犯すことになるのだが、ダイムラー の株主、とりわけ大口の機関投資家が三菱自動車への出資 について反対するのではないか、ということくらいは誰でも 考えるところ。
ところが三菱自動車トップはもちろん、三菱グループの社 長会「金曜会」のメンバーは夢にもそのようなことは考えな かった。
というのはグループ内でお互いに株式を相互に持ち合い、 社長会ですべて相手を信任するという日本型企業集団では、 大株主が経営者に反対するなどということは考えられないか 57 JULY 2004 めることはできない。
三菱の名において 一九九○年代に入ってバブル経済が崩壊するとともに、 ?持 合い崩れ〞と?メインバンク離れ〞が起こった。
株式相互 持合いとメインバンク・システムこそは企業集団の根幹を与 えている構造だが、それが崩れはじめたのである。
ところがここでも三菱グループは流れに抵抗し、株式相互 持合いを維持しようとし、メインバンク・システムを守ろう としてきた。
これによって企業集団としての結束を維持しようとしてき たが、三菱銀行が東京銀行を合併することでその体制をあ る程度維持していくことができた。
この強さの自信が今回の三菱自動車の事件を生んでいったといってもよい。
おそらく三菱グループは三菱の名にかけ て三菱自動車を守っていくだろう。
現に三菱重工業や三菱 商事、そして東京三菱銀行の経営者の間からは「三菱自動 車は絶対につぶすわけにはいかない」という声が聞かれると いう。
もし三菱自動車のような事件が他の企業で起こったとし たら、そして大株主である外資から出資を断られるような事 態になったなら、その企業は会社更生法か民事再生法の適 用、あるいは産業再生機構の手に渡るだろう。
それによって 企業は倒産すると同時に、再建される。
ところが三菱自動車の場合にはそうはならない。
三菱グル ープがそれをさせないのである。
このような経営者の判断がはたして正しいか、どうか。
そ れは後になってみなければわからないが、しかしこのような 企業集団の動きが企業再生をおくらせ、ひいては日本企業 全体の構造改革をおくらせることだけは間違いない。
三菱自動車の事件はそのような意味で大きな実験である と同時に、経営者の判断を試される事件でもある。
おくむら・ひろし 1930年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
近著に『判断力』(岩波新 書)。
らである。
このあたりにいかにも三菱グループらしいあり方 が見事にあらわれている。
日本の六大企業集団 三菱、三井、住友、芙蓉、第一勧銀、三和グループとい う六大企業集団の体制は一九五○年代にほぼ出来あがり、戦 前の財閥に代わってこれらの企業集団が日本経済を支配す るようになった。
なぜこのような企業集団が生まれ、それはどのような構造 になっていたのか、という点については私の『日本の六大企 業集団』(朝日文庫)を参照して頂きたいが、これは一九七 六年にダイヤモンド社から出版したものに手を加えて一九九 三年に朝日文庫に入れたものである。
そこで私は企業集団の成立する根拠として産業構造の重 化学工業化ということを強調したのだが、そのことはとりも 直さず三菱グループの強さの秘密でもあった。
ここで重化学工業というのは金属、機械、化学をいうが、 機械のなかには輸送用機械としての自動車も入るし、電気 機械としてエレクトロニクスも含まれる。
これら重化学工業では多くの産業分野の企業をメンバー に持つ企業集団が有利である。
また、重化学工業では巨額 の設備投資資金を必要とするが、それにも大都市銀行を中 核に持つ企業集団が有利である。
この産業構造の重化学工業化がすなわち日本経済の高度 成長を可能にし、そして三菱をはじめとする企業集団に有 利にはたらいたことはいうまでもない。
しかし石油危機以後、日本経済の産業構造は転換をせま られ、脱重化学工業化しはじめた。
その動きに順応するので はなく、それを押しとどめようとしたのが企業集団であり、 とりわけ三菱グループだった。
それはなにより海外に進出し ようという形で、重化学工業的体質を守っていこうとしてき た。
それはある程度うまくいったが、時代の流れを押しとど

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