ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2004年4号
特集
路線業の終わり 西鉄運輸―路線業から3PLへ転身図る

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

APRIL 2004 16 西鉄運輸―路線業から3PLへ転身図る 九州を地場とする鉄道系トラック運送会社。
2001年、赤字 の元凶となっていた特積み事業から完全に撤退した。
現在は 区域輸送や物流センター事業に特化している。
特積み撤退で 売上高はピーク時に比べ半減したが、黒字転換を果たした。
(刈屋大輔) 宅配便で路線の建て直しを模索 西鉄運輸の業績が回復基調に転じている。
同社は 九七年三月期から二〇〇二年三月期まで六期連続で 経常損失を出していた。
しかし二〇〇三年三月期に は赤字を解消。
二〇〇四年三月期もわずかではあるが、 利益を確保できる見通しだという。
二〇〇一年三月、同社は路線事業(現・特別積み 合わせ事業)から完全撤退した。
長らく採算割れを続 けてきた同事業を捨てて、他の事業に経営資源を集 中させた。
そのことが業績の回復に大きく貢献してい る。
「経営危機の峠は越えた。
西鉄グループ内の?お 荷物的な存在〞という不名誉なポジションからようや く脱出できそうだ」と同社の幹部は胸を撫で下ろして いる。
西鉄運輸は一九四八年に誕生した。
区域業者とし て出発したが、その後、路線事業の免許を持つトラッ ク運送会社を吸収合併し、当時の花形とされていた 路線事業に進出した。
以来、本拠地の福岡と九州各 県の都市、本州の主要都市間を結ぶ輸配送ネットワ ークの整備に力を注ぎ、同じ福岡の久留米運送や、熊 本の九州産交運輸らとともに九州を代表する路線業 者として活躍してきた。
業績は九〇年代半ばにピークを迎え、年商は一八 〇億円を超えていた。
ところが、九〇年代も半ばを過 ぎると明らかに翳りが見え始めてきた。
不況のあおり を受けて業績はジリジリと下降線を辿るようになった。
そして前述した通り、九七年三月期からは赤字決算 を余儀なくされた。
足を引っ張っていたのは主力の路線事業だった。
事 業者間の競争が激化した影響で、ネットワークを形成 するインフラの維持に掛かるコストに見合うだけの貨 物量を確保できなくなっていた。
「東京から西へ向か う下り便はまだマシだった。
しんどかったのは上り便。
不況で荷物が集まらない。
少ないパイを他社と取り合 うため運賃が下がる。
採算度外視で仕事を引き受けて しまう。
いくら仕事をやっても利益が残らない悪循環 に陥っていた」という。
業績の落ち込みに歯止めを掛けるためには路線事業 の建て直しが絶対条件だった。
同社の関係者が指摘 する通り、当面の課題は上り便の貨物量を増やしてい くことだった。
ただし、闇雲に量を増やしていけばい いという話ではなかった。
安い運賃のままでは意味が ない。
赤字額ばかりが膨らんでしまう。
西鉄運輸が目をつけたのは宅配便だった。
宅配便は 一般の路線貨物よりも割高な運賃を収受できる。
九 州各地から本州に向けて出荷される明太子や柑橘類、 焼酎といった特産品を宅配便として取り込むことで、 路線事業の収支改善を実現しようと考えたのだ。
こうして宅配便事業への新規参入を決めたものの、 西鉄運輸は全国をカバーできるネットワークを構築し ていなかった。
これから自社で新たに整備していくわ けにもいかない。
そこで郵政省(現・郵政公社)と業 務提携し、九州で集めた宅配貨物を、郵政省の「ゆ うパック」のネットワークにのせて全国に配送するこ とにした。
宅配便サービスを開始したのは九八年十二月だった。
ブランド名は「ひまわり宅配便」。
ひまわりをあしら ったオレンジ色の幟(のぼり)を用意するなど積極的 なPR活動を展開。
全社を挙げて宅配便の獲得に乗 り出した。
しかし、現実はそんなに甘くはなかった。
後発組が 新たに開拓できる余地は宅配便のマーケットには残さ れておらず、肝心の荷物はほとんど集まらなかった。
第1部 特積みトラック運送の50年 トヨタ方式に挑む 路線業の終わり 第1特集 17 APRIL 2004 結局、「ひまわり宅配便」は路線事業の救世主どころ か、新たなコスト要因として重くのし掛かった。
「路線は収支が見えにくい」 西鉄運輸にとって宅配便が軌道に乗らなかった影 響は小さくなかった。
九九年度の決算(二〇〇〇年 三月期)数字がそのことを如実に物語っている。
その 前年にあたる九八年度の経常損失は四億五五〇〇万 円だった。
それが九九年度には一六億一〇〇〇万円 にまで拡大している。
さらに翌二〇〇〇年度にはその 額が一九億五〇〇〇万億円に達した。
「赤字のすべてが路線事業に起因しているわけでは なかった。
ただし路線事業が最大の不採算部門である ことは確かだった。
路線事業はネットワーク全体で収 益を上げるビジネス。
そのため支店ごとの収支が見え にくい。
それがダラダラと赤字を垂れ流す要因の一つ にもなっていた」と西鉄運輸の幹部は説明する。
止血の手段は一つしかなかった。
路線事業からの撤 退である。
決断したのは当時親会社である西鉄不動 産の社長を務めていた山本弘氏だった。
同氏は西鉄 運輸の経営を立て直すため、二〇〇〇年二月から西 鉄運輸の社長を兼務していた。
希望の星だった宅配 便がコケてしまった以上、路線事業は将来も黒字化の メドが立たないと判断した。
二〇〇一年三月末までに 路線事業から完全に撤退し、その後は区域事業など に注力していく方針を打ち出した。
路線事業からの撤退を表明後、すぐに大規模なリ ストラに取り掛かった。
まず社内で希望退職者を募り、 もともと八〇〇人いた社員を五〇〇人にまで削減した。
続いて区域事業を展開する福岡、東京、大阪、広島 を除く地域の支店、営業所などを順次閉鎖した。
幹 線輸送用の大型トラックや集配用の小型トラックの数 も徐々に減らしていった。
「路線業者が路線事業を手放して本当に大丈夫なのだ ろうか。
社内にはそんな不安も拡がっていた。
路線事 業から撤退した後、われわれはどこから手を付ければ いいのだろうか。
最初はさっぱり分からなかった。
し ばらく外に営業にも出られず、事務所でボーっとして 過ごしていた」とある営業マンは当時を振り返る。
しかし社員の頭の中が切り替わるのにそれほど時間 は掛からなかったようだ。
ほどなく物流センター事業、 トランクルーム事業、バイク便事業、リサイクル物流 事業などを路線事業に代わる新たな収益源のとして育 てることに成功した。
このうち、いま西鉄運輸が大き な期待を寄せているのは物流センター事業だ。
元請け として荷主企業から物流業務を一括で受託する。
いわ ゆる3PL事業である。
モデルケースとなっているのは福岡三越との取り組 みだ。
西鉄運輸は、各ベンダーから納品される商品を 物流センターで検品後、店舗に供給。
さらに店舗で販売された商品を購入者宅に配送する、といった一連の 物流業務を任されている。
二〇〇三年三月期、西鉄運輸の売上高は八四億六 二〇〇万円だった。
路線事業から撤退する前と比べ ると、ほぼ半分の水準にまで落ち込んでしまった。
し かし、冒頭でも触れたように売り上げは半減したもの の、黒字転換に成功している。
約五〇年間にわたって 会社の収益基盤となってきた路線事業からの撤退とい う苦渋の選択は結果として正しかったようだ。
ただし、親会社である西鉄不動産による特別な支 援や、本業以外の部分での稼ぎが利益の大半を占め ているなど、完全に経営危機から脱したとは言い切れ ない面もある。
予断を許さない状況はもうしばらく続 きそうだ。
1,000 0 ▲1,000 ▲2,000 売上高 経常損益 ▲455 ▲1,610 ▲1,950 ▲564 17,088 13,958 (百万円) (百万円) 16,614 9,062 8,462 40 1999.3 2000.3 2001.3 2002.3 2003.3 路線事業から撤退 18,000 16,000 14,000 12,000 10,000 8,000 6,000 4,000 2,000 0 ●西鉄運輸の業績推移 売上高 経常損益

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