ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2013年5号
判断学
第132回 会社評論のあり方

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

奥村宏 経済評論家 MAY 2013  66       国家主義から会社主義へ  「会社をどう見るか」「会社をどうとらえるか」──これは 会社で働いている人にとってはもちろん、日本人全体にとっ て大きな問題である。
 かつての日本人にとっては「国家とは何か」ということ が最大の問題であった。
そこでは、人間は国家のために働き、 そして国家のために命を捧げるべきだとされていた。
昭和初 年に生まれた私たちは子供のころからそう教えられ、自分で もそう信じていた。
 ところが戦争が終わって国家主義は一挙に崩れ去った。
そ こで国家に代わるものが求められた。
本来なら国家主義に代 わって個人主義が確立するはずであったが、そうはいかなか った。
もちろん個人主義の確立を求める人たちもいたが、そ れは成功しなかった。
いわゆる?主体性論争?などに表れ ているように、哲学者や小説家などにはそれを求めた人たち もいたし、とりわけ学生たちにはそれに追随する者もいたが、 それは確立しなかった。
 そうした戦後の混乱時代を経て、やがて日本で確立したの が?会社主義?であった。
そこでは、国家に代わって会社の ために人間は働くべきだ、ということになった。
 これが私の言う?会社本位主義?であり、それを原理とし て法人資本主義という体制が確立し、それによって日本経済 は高度成長した。
会社のためにみなが一所懸命に働けば会社 は大きくなり、経済が成長するのは当然である。
 それによって日本経済は高度成長を遂げたのであるが、や がてそれが頭打ちになり、日本経済は長期不況に陥った。
 そうしていま改めて「会社とは何か」ということが問題に なっているのである。
そこで問われているのは、会社をどう とらえ、どう見るか、ということである。
求められているの は「会社の哲学」であるが、同時に会社評論のあり方も変わ らざるをえなくなっている。
       人物中心の内幕もの  そう思って本屋に行くと、店頭には?会社もの?がたくさ ん並べられている。
東京電力やトヨタ自動車、あるいはパナ ソニックやソニー、シャープなどに関する本が次から次へと出 版されている。
 そう言う私も東京電力やトヨタ自動車、そしてパナソニッ クなどについて本を書いてきた。
そこで私が問題にしたのは 会社のあり方であり、それが変わらざるを得ないということ を強調した。
 ところが、いわゆる?会社もの?の本の多くは、会社の 内幕を書いたものか、あるいは会社の宣伝である。
そこでは、 「会社はどうあるべきか」、などということはおよそ問題にさ れない。
それは?読みもの?としては面白いかもしれないが、 それだけの話であとに残らない。
 例えば立石泰則氏の書いた『パナソニック・ショック』(文 藝春秋社)という本が出ているが、そこで扱われているのは 松下幸之助から始まって歴代の社長についての話で、誰がど う言ったかということがくわしく書かれている。
そしてパナ ソニックが危機に陥ったのは、松下幸之助の創業の精神が忘 れられたからであるとし、歴代の社長、とりわけ中村邦夫元 社長の責任をきびしく追及している。
 パナソニックが経営危機に陥ったことの責任はもちろん歴 代の社長にある。
しかし、それは社長個人の責任というより も、パナソニックという会社のあり方に問題があったのであ る。
それは一口で言って「会社が大きくなりすぎた」ことに ある。
かつて山下俊彦元社長はこれを?大企業病?と言って いたが、それこそが問題だったのである。
 そういう視点から私は『パナソニックは終わるのか』(東洋 経済新報社)という本を書いたのだが、立石氏の本にはそう いう視点は全くない。
ただ、歴代の社長の責任について論じ るだけである。
 戦前の会社評論は株式投資のためにあり、それが戦後は“読 みもの” となった。
しかしいま必要なのは、「会社とは何か。
ど うあるべきか」という問いに答えることなのである。
第132回 会社評論のあり方 67  MAY 2013       新しい見地からの会社評論  いま問われているのは会社評論のあり方である。
つまり会 社をどういう視点からとらえるかということこそが問題なの である。
 もちろん、戦前の石橋湛山や高橋亀吉がやったような株式 投資のための会社評論では駄目である。
 しかし、戦後の会社評論の多くがしたような、人物中心の 内幕ものでは会社を評論することにはならない。
 もちろん経営者について論じることは必要だが、それはあ くまでも会社という組織のなかでの経営者のことであり、経 営者が会社のすべてではない。
 個人企業や中小企業では経営者が会社をとりしきっており、 自分の思うように経営しているように見えるかもしれないが、 しかし、経営者はすべて自分の好き勝手に会社を動かしてい るわけではない。
 いわんや大企業となると、多くの従業員がそこで働いてい るので社長の思う通りにはいかない。
 それだけではない。
そもそも会社は日本の社会、あるいは 国際的な環境のなかで動いているのだから、何でも経営者の 思う通りにいくわけがないのである。
 そこで求められているのは、そういう環境のなかでの会社 を総体的にとらえることである。
会社評論はこうした見地か ら行われるべきであり、人物中心の読み物から脱却していく ことが必要である。
 そう考えると、これまでの経済学はもちろん経営学も会社 評論にはあまり役立っていないということに気づく。
 これまでのケインズ経済学もマルクス経済学も会社を解明 することにはあまり役立っていない。
いわんや日本の経済学 者や経営学者の書いたものは会社評論には役立たない。
 こうして今、新しい見地から会社評論を打ち立てることが 必要になっているのである。
       人物中心の会社評論  戦前から日本には会社評論という分野があった。
それを確 立したのは石橋湛山や高橋亀吉で、『週刊東洋経済』や『ダ イヤモンド』などがその舞台であった。
 しかし、それは株式投資のための会社評論であり、一般向 けではなかった。
それに対し、戦後は?読みもの?としての 会社評論が流行するようになったが、経営者や会社幹部につ いての内幕ものが多く、人物中心であった。
一般向けの読み 物として会社評論を書くとすれば、どうしても人物中心にな ってしまう。
 その結果、多くの会社評論は、その会社の社長、あるいは 会長がいかに偉かったかという話になる。
そこでは松下電器 産業という会社について論じるのではなく、松下幸之助とい う人物がいかに偉かったかという話になる。
 逆に、その会社が危機に陥ると、社長がいかに無能であっ たかという話になる。
先の『パナソニック・ショック』など もそうであるし、東京電力の原発事故についても、会長や社 長、あるいは経営幹部の責任について論じている。
 しかし、問題は東京電力という会社のあり方にある。
この ことを私は『東電解体』(東洋経済新報社)で書いたのだが、 多くの本は東京電力の内幕について書き、せいぜいのところ 歴代の社長や幹部、あるいは現場の担当者の責任について論 じるだけである。
 これでは読み物としては面白いかもしれないが、問題の解 決には役立たない。
 そんな本を読んで、読者は溜飲が下がるかもしれないが、 それだけのことであとには残らない。
 そのような本を書くライターや、そしてそれを担当する出 版社の社員はこれについてどう思っているのだろうか?  社会的に見てもそれは無駄な仕事であり、社会に貢献して いない。
おくむら・ひろし 1930 年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
近著に『東電解体 巨大株 式会社の終焉』(東洋経済新報社)。

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