ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2004年3号
判断学
この経営者の判断

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奥村宏 経済評論家 第22回 この経営者の判断 MARCH 2004 54 株式会社の原理に反する判断を下した経営者を、なぜ戦後日本経営史上初 のヒーローと呼ぶのか? 日本の経営史はとかく経営者の賛美に終始しがちだ。
歴史を客観的にとらえ、そのなかでの経営者の役割を冷徹に評価しなければな らない。
日本の経営史 経営者にとって判断力を持つということがいかに重要か、 ということはいうまでもない。
経営者の伝記や社史を読んで いると、会社が重大な局面になった時、いかに経営者が判 断したか、ということが書かれているが、なかには経営者を 賛美するために、こじつけた理屈を並べているものも多い。
アメリカにはアルフレッド・チャンドラーというすぐれた 経営史(ビジネス・ヒストリー)の大家がいる。
彼は『ビジ ブル・ハンド』という本を書いてアメリカの経営者の判断が いかに重要な役割を果たしているか、ということを書いてお り、この本は日本語訳では『経営者の時代』という題で東 洋経済新報社から出ている。
一九八九年、チャンドラーは長くつとめていたハーバー ド・ビジネス・スクールの教授から引退したが、その直前に 私はハーバード・ビジネス・スクールにチャンドラーを訪ね て、いろいろ話を聞いたことがある。
そしてチャンドラーの退任に際して開かれた最後のセミナ ーに出席し、大変刺激を受けたことを今でも思い出す。
チャ ンドラーは日本にも来たことがあるし、そして日本の大学教 授にはチャンドラーに学んだという人が多い。
日本でもチャンドラーの影響を受けて経営史の研究をす る学者が増えており、日本経営史学会という学会ができて いる。
経営史の研究が大事なことはいうまでもないが、しか しこれが経営者がいかにすぐれていたか、という賛美歌にな ったのではどうしようもない。
チャンドラーがやったように会社の歴史を客観的にとらえ、 そのなかでの経営者の役割を分析することが必要なのだが、 日本の経営史はとかく経営者を賛美するお話になっている。
なにより日本の社史は会社や経営者にとって都合のよいこ とばかり書いており、客観的でない。
これでは会社の研究を する者にとって役に立たない。
川鉄、西山弥太郎の評価 最近、日本の経営史学会では川崎製鉄の初代社長であっ た西山弥太郎を高く評価する傾向が目立っている。
例えば 「経営史学会のベテラン」が執筆したという佐々木聡編『日 本の戦後企業家史』(有斐閣)では、経営史学会顧問森岡英 正氏が次のように書いている。
「戦後日本経営史のヒーローを、産業分類を越えて時間の順 序に並べてみると、西山弥太郎は輝けるトップバッターであ った。
ソニーやホンダの創業者のように、終戦直後にのちの 大樹の苗を植えた人も偉大には違いないが、まだ苗を植えた 段階ではトップバッターとは言えない」(同書二五六頁)。
また、つい最近出た『エコノミスト』の臨時増刊『戦後 日本企業史』(二〇〇四年二月九日号)では、戦後のすぐれた経営者として本田宗一郎や井深大と並んで西山弥太郎を あげ、橘川武郎東大教授が、西山弥太郎は戦後日本が生ん だ経営のヒーローの先駆者であるとしている。
このような西山評価の傾向をリードしたのは米倉誠一郎 一橋大学教授で、彼は一九九一年に出た米川伸一、下川浩 一、山崎広明編『戦後日本経営史』(東洋経済新報社)の第 一巻の中で西山弥太郎を高く評価した。
そして一九九九年 に出た『経営革命の構造』(岩波新書)で、戦後経済発展の 新しいパラダイムを作ったのが西山弥太郎だとし「西山パラ ダイム」という言葉を使っている。
このように経営史学者た ちが西山弥太郎を高く評価するのは、戦後の混乱期のなか で川崎製鉄が千葉に新製鉄所を作り、これがその後の大企 業による設備投資、それによる日本経済の高度成長をもた らすことになったのだという考え方からである。
「借入金を中心とした調達資金を最新鋭の大型設備に投下し、 圧倒的な国際競争力を構築する」――これが「西山パラダイ ム」だと前記の本で米倉誠一郎氏は書いている(一九八頁) が、これが西山弥太郎が高く評価される理由である。
55 MARCH 2004 株式会社の原理に反する 株式会社が全株主有限責任であるということは最後に責 任を持つ者がいないということである。
そこで会社にカネを 貸す人は資本金を担保として考える。
ということは、資本 金を上回るカネを借りるのは株式会社の原理に反するとい うことである。
川崎製鉄はまさにこの株式会社の原理に反することをや ったのである。
一万田日銀総裁の「ペンペン草」発言はそこ から出てきたのだが、そのような無謀な計画にカネを貸す銀 行があるのか、ということが問題になった。
当時の川崎製鉄 のメインバンクは第一銀行であったが、この第一銀行は常務 の大森尚則を川崎製鉄の会長として送り込んだ。
この第一 銀行の要請によって他の銀行も川崎製鉄に融資したのだが、その資金の多くは日本銀行からの借入金によるものであった。
ということは川崎製鉄のこの計画が失敗して倒産したとした らメインバンクをはじめとする銀行が責任を持つが、その尻 ぬぐいは日本銀行がするということである。
逆に日本銀行は 市中銀行を絶対につぶさないから、銀行もまた川崎製鉄は つぶさないということである。
なんのことはない、国家の保証で銀行、そして企業が守ら れる。
だからいくら借金をして無謀な投資をしても大丈夫だ ということになる。
米倉誠一郎氏の言う「西山パラダイム」 とはこういうことである。
それを大胆にやれたのは、西山社 長が株式会社のなんたるかをわかっていなかったからである。
このように株式会社の原理に反するやり方をした結果、川 崎製鉄は成功した。
そしてそのあとに続いて大企業がいっせ いに無謀な設備投資を行い、これが日本経済の高度成長を もたらしたのだといえる。
そしてその結果が、銀行の不良債権となって今大きな問 題になっているのである。
このようなことを考えないで、西 山弥太郎を高く評価するのは一面的ではないか。
おくむら・ひろし 1930年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
近著に『会社をどう変える か』(ちくま新書)。
日銀総裁の「ペンペン草」発言 一九五〇年といえば朝鮮戦争が始まった年であるが、そ の年九月川崎製鉄(現JFEスチール)は千葉に銑鋼一貫 の一大製鉄所を建設するという計画を発表した。
その資金 は一六三億円で、そのほとんどを借入金によって調達すると いうものだった。
当時、川崎製鉄は川崎造船所(川崎重工 業)から分離独立したばかりで、その資本金は五億円だっ たが、その資本金の三〇倍以上の資金を投下するというの だから人びとが驚いたのはいうまでもない。
当時、日本銀行 の総裁で「日銀の法王」といわれた一万田尚登がこの川鉄 の計画を聞いて、「千葉製鉄所の天井にはペンペン草が生え るだろう」と言ったというのは有名な話である。
こんな無謀 な計画が成功するはずがない、というのが一万田総裁の言 葉にあらわれているが、多くの人たちもそう思った。
その後、千葉製鉄所の建設計画は強引に進められるのだ が、その頃、新聞記者として私は何回も神戸にある川崎製 鉄本社を訪ねて取材し、西山社長にも会ったことがある。
西 山社長は東大工学部の冶金工学科を卒業して川崎造船所に 入った人で、きっすいの技術者であった。
そこで、千葉製鉄所の建設資金をどのようにして調達す るのか、というようなことを聞いても、「それは経理担当の 役員に聞いてくれ」というだけで、答えにならない。
われわ れ新聞記者仲間では「西山さんは技術者で、経理のことな どさっぱりわからない。
だからこんな無謀な計画がたてられ るのだ」と言っていたものである。
経営者としての判断はしばしば合理的なものではなく、動 物的なカンに基づくものである。
それによって失敗すること もあるが、成功することもある。
しかし成功したとしてもこ れを合理的な判断ということにはならない。
西山弥太郎の場合がまさにそれで、それは非合理的な判 断によって成功したのだということができる。

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