ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2011年12号
メディア批評
反対から賛成への転向を検証できるのか?『朝日新聞』の連載記事「原発とメディア」

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

佐高 信 経済評論家 DECEMBER 2011  64  『朝日新聞』に「原発とメディア」が連 載されている。
十一月八日付が二五回目で、 一九五六年一月一日付の『読売新聞』の座談 会が引用されている。
 出席者が国務大臣で原子力委員会委員長と なった正力松太郎、衆議院議員の中曽根康弘、 原子力物理学者の嵯峨根遼吉、そして作家の 森田たまである。
題して「原子力平和利用の 夢」。
森田が、  「やはり人類が進歩するためには多少の犠 牲はやむを得ないと思っています。
そんなに(放 射能を)心配することはないと思う」  と言い、嵯峨根が、  「放射能は確かにこわいものですけど、よ く研究すればこわがらなくてもよいことがわ かる時期がきますね」  と応ずると、中曽根は、  「こわがるのはバカですよ(笑声)」  と言ったという。
 いまや、中曽根が「こわがらないバカ」で あることがハッキリしたが、同年一月一四日 付の社説で『朝日新聞』は「一足とびに発電 の夢を描くのは危険だ」と主張している。
 しかし、この連載が(筆者は上丸洋一)『朝 日』がその後、転向して、原発危険記事を載 せなくなった経緯を追えるのかどうか?  やはり、『朝日』のエネルギー記者だった志 村嘉一郎が『東電帝国 その失敗の本質』(文 春新書)で、「朝日が原発賛成に転向した日」 のことを書いている。
 一九七九年八月に同社は原子力問題を担当 している第一線の記者を集め、三日間の研修 会を開いた。
その目的は、同社の原発報道の 姿勢が「No、but」から「Yes、but」 に変わったことを徹底させるためだったという。
 その転換への動きは一九七四年に始まった。
当時の同社の広告関係者は、  「石油危機で朝日の広告が少なくなり、意 見広告をたくさん入れようということになっ た。
しかし、原発促進は社論に反するもので、 編集トップがどう考えるかお伺いをたてる必 要があった。
編集トップと広告トップの会談、 論説委員室と広告局との話し合いが何度も行 われ、最終的には編集担当専務渡辺誠毅の決 断で、原発推進の意見広告が出された場合は これを受ける、という結論になった」  と話しているとか。
 のちに社長となる渡辺と東京電力の社長、 会長を歴任する木川田一隆とは、志村によれ ば「古くからのつきあい」だった。
多分、こ のラインからの情報で、当時の電気事業連合 会広報部長の鈴木建が、旧知の論説主幹、江 幡清に電話をかける。
 「実はお宅の広告局との間で、原子力のP R広告を出す話がありますが、もし原子力の PR広告を出した場合、社内では社会部や科 学部あたりから問題がでることはないでしょ うか」  その問いかけに江幡は答えた。
 「我が社の方針としては、原子力発電は将 来の国民生活に必要なものであることは認め ている。
安全性の追求は別ですが‥‥。
した がって、意見広告のごときはいいのではない かと思う。
調べた上でご返事をしましょう」  そしてまもなく、江幡から大丈夫という答 えが返ってきて、一九七四年七月から月一回、 『朝日』に一頁の上三分の二を埋める広告が 載ることになった。
 『朝日』が解禁となって、?原子力新聞?を 自負していた『読売』は、自分のところにも 是非と電事連に飛び込んできた。
 それから、ブロック紙や地方紙にも次々と 載ることになる。
 『毎日』もやってきたが、このころ、同紙 は原子力反対キャンペーン記事を連載中だっ た。
それで、鈴木は広告局の人間を追い返す。
しばらく経って、『毎日』も「原発反対」か ら「賛成」に転じ、原子力PR広告が掲載さ れるようになった。
反対から賛成への転向を検証できるのか? 『朝日新聞』の連載記事「原発とメディア」

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