ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2011年5号
特集
第1部 その時あの人はどう動いたか被災地の現場に何が起きたのか

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

MAY 2011  14 燃え続ける倉庫  三月十一日、宮城県倉庫協会の会長を務める東 邦運輸倉庫の黒川久社長は日本倉庫協会の会合で 東京に出張していた。
移動の途中、御成門駅の地 下通路から外に出たところで、大きく街が揺れた。
携帯電話を確認すると震源地は地元・宮城県だと いう。
血の気が引いた。
 東京の営業所に入り、情報収集に努めた。
連絡 の取れた現地の従業員によると、仙台市宮城野区 の本社は大きな被害がなかったものの、本社から 海側に三キロほどの距離にある仙台港支店が壊滅。
従業員の安否も確認できていないという。
一刻も 早く仙台に戻りたかったが交通手段がない。
その 日は事務所でニュースを見て一夜を過ごした。
 翌十二日、東京営業所の所長から自家用車を借 り、仙台を目指した。
東北道は緊急車両以外通行 止めのため国道四号線を北上した。
十三日の昼過 ぎにようやく本社に着いた。
トップが留守の間も 本社の復旧作業は順調に進んでいた。
居合わせた 社員たちを集めて激励し、従業員とその家族の安 否確認に最優先で取り組むよう指示を出した。
 その日の深夜、被災した仙台港支店から火が出 ているとの知らせが入った。
翌早朝に現地に入っ た。
津波に巻き込まれた車両や大量のガレキで港湾 地区はすっかり姿を変えていた。
流れ着いたまま の遺体もある。
足場を確かめながら徒歩で進むと 見慣れた支店の建物から黒い煙が上がっていた。
 消防に連絡したが手がつけられないという。
無 理もなかった。
港の対岸では石油コンビナートが大 火災を起こしていた。
消防や警察も半ばパニック状 態になっていた。
結局、支店は六日にわたって燃 え続けた。
電源が断たれた無人の倉庫から、なぜ 出火したのか。
原因はいまだ不明だ。
 四月五日現在、宮城県倉庫協会の会員事業者の 被災状況は、まだ全容が把握できていない。
しか し黒川社長は「私の知る限り県内のすべての倉庫 会社が被災している。
死者・行方不明者も出てい る。
当社も約四〇〇〇坪の倉庫施設を失った。
従 業員も命は助かったが自宅の全壊や半壊など大き な被害を受けている。
自家用車を流された従業員 を数えてみたら五六人もいた」という。
 しかし、黒川社長は事業の復旧に専念するわけ にはいかなかった。
地元の倉庫協会長として宮城 県に対する災害支援の指揮をとる必要があった。
 宮城県では一七九三年(寛政五年)以降、三〇 年〜四〇年の周期で宮城県東方沖の活断層を震源 とするマグニチュード七以上の大規模地震が繰り返 し発生している。
「宮城県沖地震」と呼ばれる。
直 近は一九七八年。
いつまた再発してもおかしくな い時期を迎えている。
(今回の東日本大震災は震源 地が違うため宮城県沖地震には分類されていない)  このため県と県倉庫協会は〇七年に災害支援協 定を結んでいる。
災害発生時には協会が県に物流 専門家を派遣しオペレーションの指導に当たる、営 業倉庫で支援物資の受け入れにも協力するという 宮城県倉庫協会の会長を務め る東邦運輸倉庫の黒川久社長  自治体の集積所は全国から集まった救援物資で溢れか えっていた。
ところが、そこからわずかの距離に、飢えと 寒さに震える避難民たちがいた。
自らも被災者である現地 の物流マンたちは寝食も忘れて支援作業に当たっていた。
現地の物流に、いったい何が起きたのか。
  (大矢昌浩) 被災地の現場に何が起きたのか 第1 部 その時あの人はどう動いたか 特 集 3・11どうなる物流 15  MAY 2011 内容だ。
しかし県内の主だった営業倉庫はどこも 地盤の悪い仙台の東側に位置している。
シミュレー ションから宮城沖地震が発生した場合、最も大き な被害を受けるのは石巻から仙台の東側にかけて の沿岸地域であることが分かっている。
 黒川社長は「宮城県沖地震が起きれば、一回目 の地震で九〇%近くの営業倉庫がやられてしまう と我々は予想している。
そうなれば、いくら協定 を結んだといっても物理的に県に協力することが 難しくなる。
他県の倉庫協会にも協力を依頼しよ うという話し合いを県の担当者と進めていたとこ ろだった」という。
 県としては災害が起きても実際に民間の施設を 借りることになるとは考えていなかったようだ。
県 の所有する施設で十分間に合うはずだった。
とこ ろが、そうはいかなかった。
被災したのは県も同 じ。
職員の手が足りず、スタッフの振り分けがで きない。
公共施設にはフォークリフトやパレットも ない。
大量の物資を手作業で処理するのは不可能 だった。
 三月一六日、県の救援物資を営業倉庫で受け入 れて欲しいという依頼が協会に入った。
急遽、会 員事業者に協力を打診した。
しかし、会員はどこ も被災している。
建物が全壊・半壊を免れた倉庫 も震度六以上の揺れで内部は崩れている。
荷主か らは一日も早い復旧を要請されている。
しかし電 気は通じず、社員たちの出社もままならないとい う状態だ。
 東邦運輸倉庫を含め四社が何とか手を挙げたが、 用意できたスペースは数百坪規模。
県の災害対策 本部にそのことを伝えたが、緊急物資はすぐに出 荷するのでそれでも構わないという。
見切り発車 だった。
一応のルールは決めた。
集積所への受け入 れや出荷などの指示は、すべて県災害対策本部を 通す。
集積所が分散することになったため、食品・ 水、毛布・衣類というかたちで拠点ごとに品目を 分ける。
災害対策本部の受け入れ部門には品目別 に県の担当者を置き、そこから指示を出す。
そう フローの説明を受けた。
救援物資が滞留したわけ  ところが蓋を開けてみると、予定を遙かに超え るトラックが集積所に殺到した。
県災害対策本部 には、全国から支援物資供給の申し出が集中した。
その対応に追われ運用ルールが忘れ去られた。
品 目別の集積所を記載した営業倉庫のリストがいつ しか独り歩きを始め、本部に連絡を通していない 物資が次々に倉庫に到着する。
荷降ろしを待つト ラックが長蛇の列を作った。
 出荷も滞った。
集積所からの出荷は、各市区町 村が域内の避難所の情報を取りまとめ、市区町村 から県対策本部に必要な物資を要請。
それを受け て県が出荷指示を出すという手順を踏む。
被災後 間もなく市区町村指定の避難所は物資で一杯にな り、出荷要請は止まった。
 ところが、自然発生的にできた小規模な避難所 や自宅に待避した被災者たちには支援物資が行き渡 っていなかった。
避難民の居場所を特定する方法 も配送する手段もなかった、県本部を通さず、避 難所が自らの判断で集積所に物資を取りに来るこ ともあった。
しかし、オペレーションに当たってい る倉庫会社は災害対策本部からの指示なしに物資 を渡すことはできない。
 マスコミは支援物資の滞留を過剰に演出し、悪 者探しを開始した。
「テレビでは学者が実態も見ず に物流が悪いと指摘する。
現場の社員たちは自分 たちも被災者なのに休みも取らず懸命に働いてい る。
経営者としてかける言葉がなかった」と黒川 社長はいう。
 震災から三週間が経った現在、県倉庫協会は災 害時の物流について改めて県や国交相に提言を始 めている。
情報管理、指示系統や役割分担、物資 の受け入れルールの徹底、物資の保管方法など、実 際に被災したことで明らかになった課題を分析し、 その対策についての意見を述べている。
 末端の避難民への二次配送については「指定避 難所から小さな避難所や自宅待避者に物資を供給 するルートを作る必要がある。
県の災害対策本部 から指定避難所に対して、その方法についての指 示と要請を出す。
同時に県は、そのことを避難民 に広く告知する。
それができれば物流はずっとス ムーズになる」と黒川社長は考えている。
東邦運輸倉庫の仙台港支店。
3月13日に出火し、 18日まで燃え続けた

購読案内広告案内