ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2010年7号
SOLE
明治陸軍にロジスティクスを学ぶ近代的な兵站制度をゼロから構築

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

81  JULY 2010 SOLE 日本支部フォーラムの報告 The International Society of Logistics  ビジネス用語として定着している 「ロジスティクス」の由来は軍事用語 の「兵站」にあると説かれている。
し かし、「兵站」そのものに接する機会 は稀であるため、SOLE日本支部 の五月のフォーラムでは元陸上自衛 隊武器学校長兼土浦駐屯地司令の 飯島矢素夫氏に「明治陸軍の兵站」 についてご講演いただいた。
講演内 容を起稿いただいたので、以下のと おりご紹介する。
戦争のプロは兵站を語る  最近、「坂の上の雲」ブームや、歴 史に関心を示し活動する女性を表現 する「歴女」の言葉が生まれ、戦国 時代や日清、日露戦争等に関心を持 つ人々が性別を問わずあらゆる年代 に多くなってきたように感じられる。
 日本は明治時代に近代国家を目指 し、「富国強兵」を国家目標として、 日清、日露の二大戦争を勝ち抜いた。
第二次世界大戦後の六五年間は武力 衝突もなく平和を享受して現在に至 っているが、「温故知新」の精神に則 り、明治時代の軍の活動のうち陸軍 の「兵站」にスポットを当てて歴史 を振り返ることにする。
 「兵站」という言葉は、現在にお いては企業活動の物流管理全般を意 味するビジネス用語の「ロジスティ クス」として広く用いられ、一般用 語化しており、その重要性は多くの 人々に認識されてきていると思われ る。
その元となった軍事用語では本 来、「軍の中継点」・「駅」を指し、軍 における「兵站」の目的は「部隊の 戦闘力を維持増進し、作戦の遂行を 可能にする」ことであり、極めて重 要な要素とされてきた。
 戦争のプロは「兵站」を語り、戦 争の素人は「戦略、戦術」を語ると さえ言われ、「兵站」を軽視したため に大敗を喫した戦例が世界中に多く 存在するのが歴史の現実である。
近代国家への脱皮に向けて  明治四年の陸軍建軍から日露戦争 明治陸軍にロジスティクスを学ぶ 近代的な兵站制度をゼロから構築 が終結する明治三八年(一九〇五年) までの約四〇年間の時代背景は、次 のようなものである。
 江戸時代から営々と続いてきた徳川 国家体制が崩壊し明治政府が成立し たが、その国家基盤は不安定な状態 であり、アジア地域で吹き荒れていた 列国の植民地支配の脅威に晒されて いた。
このため早期に国内統一を図 り、治安維持を成し遂げ、治安維持 型の軍から列国並みの近代軍に脱皮 させる必要に迫られ、明確な国家目 標「富国強兵」を旗印に政府主導の 国内産業の近代化により製鉄等の基 幹産業を育成し、兵器弾薬の自力生 産に向けて歩み出した時代であった。
 明治政府の成立当初から行われ てきた外国軍人や外国人技術者の指 導を受けての兵器の製造設備建設や 生産・修理の状況から早期に脱却し、 「兵器の独立なくして、国家の独立な し」の指導の下、兵器弾薬の国産生 産に邁進した時代あると考えられる。
これにより、多くの課題を残しなが らも短期間に「技術レベル」のそろ った兵器弾薬が大量に自力生産され、 戦場に補給され、日清、日露の両戦 争に勝利を収める大きな要因となっ たと思われる。
近代軍の編制を持つ陸軍を創設  明治政府は当初、独自の軍を保有 しておらず、薩摩藩、長州藩、土佐 藩の主要三藩が藩の軍隊を天皇に献 上した御親兵が始まりであり、日本 陸軍のルーツとされている。
政府は はじめ、軍のモデルをフランスに求め た。
また、軍の性格は明治一〇年の 西南戦争までは国内治安維持型とい うべきものであった。
 しかし明治一五年、政府はドイツ 陸軍からメッケル少佐を招聘し、軍の モデルをドイツ式に改めた。
軍の性格 は大陸型の外征軍的なものに体系化 され、軍の基本となる徴兵令や物資 の収容等を行う徴発令が公布された。
 兵器生産等に関する組織のうち、 中央行政組織は兵部省(陸軍砲兵 部)から陸軍省(軍務局兵器課)に 明治五年に改組されたほか、砲兵工 廠、砲兵会議、工兵会議、陸軍火 薬研究所、陸軍砲工学校、陸軍砲 兵工科学校等が逐次整備され、兵器 行政、兵器製造補給、兵器研究開 発およびこれらに関する人材の育成 に関する制度が確立された。
政府主導で兵器生産体制を整備  明治政府は発足当初から兵備の速 やかな整備の必要性を痛感しており、 当初は各藩でバラバラに保有してい た歩兵銃の改造を、ベルギーから招 聘した技術者の指導の下に実施した。
さらにフランスから招聘した将校の JULY 2010  82 指導の下、造兵工場の設計、兵器生 産設備の建設を行い、明治四年に東 京砲兵工廠を、その後大阪砲兵工廠 を建設し、二大工廠制の完成を見た。
これにより、自前兵器生産体制が整 ったことになる。
 人材の育成にも努めた。
東京砲兵 工廠に技術者養成機関を設置し、さ らに優秀な将校を外国に留学させて 最新技術を習得させるとともに、員 外学生制度を制定して東京帝国大学 に入学させ、基幹要員の養成制度を 整えた。
 西南戦争後はその教訓から、兵器 の統一のために国産兵器の開発を急 いだ。
明治十三年には「十三年式村 田銃」が完成し、その後、数々の改 良を加えた「二二年式村田連発銃」 が開発され、明治二七年に勃発した 日清戦争に投入された。
 さらに有坂砲兵少佐(当時)の手 により「三〇年式歩兵銃」が完成し、 明治三七年からの日露戦争の主力と なった。
この銃は「有坂ライフル」と して世界でも高い評価を得ている。
 一方、火砲についても国産化の 努力がなされたが、良質な鉄の生産、 製鋼技術が不十分だったため、国内 で産出していた銅を使った「イタリア 七五ミリ野砲(山砲)青銅砲」が模 倣生産され、日清戦争で使用された。
 その後、新火砲の必要性を痛感し 府主導の工業力の育成とそれを基礎 とする官営の砲兵工廠が設立され、 国家の責任において兵器の生産が実 行されてきた。
現在においても国家 管理の工廠を保有する国が見られる が、兵器が担う地位役割を考えれば 当然の事と言える。
 戦闘が始まると、兵器、特に弾薬 の必要量は爆発的に増大する。
そう した要求に効果的に対応するために、 実戦的な兵站要領が制度化された。
 また弾薬生産には、基礎産業であ る鋼、黄銅、亜鉛等の生産重工業力 やニトログリセリン等を生産する化 学工業力が必要であるばかりでなく、 民需との共用性がほとんどない。
こ のため政府は明治一七年、有坂砲兵 大尉(当時)をフランスに留学させ、 それらの技術を習得させた。
これを 基礎に弾薬の生産に必要な火工教程 が編纂されており、その主な内容は 火薬工場、火薬庫の設置基準、化 学材料の製造方法、保管、廃棄処 理の方法等となっている。
 多くの火薬製造所が建設され、黒 色火薬、黄色火薬(ピクリン酸)、褐 色薬(TNT)、無煙火薬が生産さ れ、弾薬、信管、爆薬が自前生産さ れた。
明治期にこのような弾薬製造 の基礎が築かれた意義は日本の歴史 上、軍事上において大きいものがあ ると思われる。
た軍首脳は、諸外国各社の火砲と国 内で開発された一〇種類の火砲を集 め、比較試験・評価を行い、その結 果、三〇年式歩兵銃と同じく有坂砲 兵大佐(当時)が開発した「三一 年式速射野(山)砲」の採用を決定。
ここに国産製鋼砲が実現し日露戦争 において活躍することとなった。
弾薬製造の基礎を築く  日本における軍事兵站のルーツは、 一五四三年の種子島への鉄砲伝来に 遡ることができる。
戦国武将がいち 早くこの兵器の重要性に着目し、競 って導入したため、大量の弾丸、火 薬、火縄が必要になり、これらを有 効に戦場に運ぶために補給要領や携 行装具等の工夫がなされ、それまで にない兵器兵站が始まったと考えら れる。
 その後の徳川時代には大きな戦乱 もなく、そうした思想は約三〇〇年 にわたって深い眠りについていたよ うである。
それが明治に入って近代 軍の創設とともに、兵站体制も着々 と整えられていった。
 戦闘力において、兵器(火器、弾 薬)は極めて大きな骨幹をなす。
その 特性は、民需との共用性がなく、生 産に特殊な技術が必要であるところ にある。
上述のように、明治初期は 国内工業力が貧弱であったので、政 一個師団の二二%が兵站部隊  明治陸軍は、明治一五年に朝鮮で 起こった「壬午事変」を契機として、 同年に徴発令、二七年に鉄道敷設令、 三七年に鉄道軍用共用令を施行し、 国内有事兵站制度を整備した。
明治 二四年に「野外要務令」、二七年に は「兵站勤務令」が制定され、兵站 要素が記述され、兵站総監、兵站監 が制度化され兵站システムが逐次整 えられた。
 また日清、日露戦争においては、 有事組織である大本営に兵站総監部 が編制されている。
参謀総長を補佐 する将官の兵站総監が置かれ、その 下部組織としてそれぞれに対応する 兵站組織がつくられた。
これら組織 の目的を完遂するための部隊も配置 され、定められた業務要領により兵 站活動が行われた。
 日清戦争時を例にとれば、兵站 組織として国内に兵站基地、集積場、 国外に兵站主地、兵站地が設置され、 師団各部隊の兵站を支援するシステ ムが作られた。
兵站基地には兵站司 令部が置かれ、ここに物資が集積さ れて集積場に送られた後、野戦軍に 送致された。
同司令部には蒐集倉庫、 野戦首砲廠、貨物廠が置かれ、国外 輸送等の諸業務が実施された。
国外 の兵站主地および兵站地には軍兵站 83  JULY 2010 も学ぶべきところが多い。
そこに約 一四〇年前の明治の指導者の凄まじ いばかりの国家意識と近代国家への 脱皮への努力と執念を感じざるを得 ない。
  (飯島矢素夫 元自衛官) を立て、国民の理解と忍耐に支えら れながら、短期間に近代明治陸軍を 創設した。
 また自前の兵器弾薬製造組織を立 ち上げ、それらを稼働させ、多くの 国産兵器を製造し、師団等の部隊 に装備させることで、近代軍の編制 を持つ陸軍に成長させた。
一方、鉄 道敷設等数々の国内インフラを整備、 拡充するとともに、徴発令をはじめ とする複雑な兵站制度を完成させた 努力は凄まじいものであった。
 陸軍の兵站に関する一般的な評価 は芳しくないようではあるが、当時 の体制を振り返ると、兵站に関する 制度、兵器の近代化、兵站システム の構築、兵站部隊の編制等が短期間 になされており、兵站を軽視したよ うには思われない。
むしろ重視して いたように推察でき、現代において 列弾薬、野戦砲廠の弾薬、野戦首 砲廠の弾薬に区分され、それぞれの 段階で保有量が決められていた。
 携行の基準は火器ごと兵科ごとに 決められており、一例を挙げれば、 小銃の弾薬を歩兵は一〇〇発、騎兵 は三〇発を有していた。
縦列弾薬は 弾薬大隊が保有し、その量は携行弾 薬と同等である。
野戦砲廠の弾薬は 携行弾薬の二分の一、野戦首砲廠の 弾薬は携行弾薬と同等と定められた。
 このように弾薬についてはその取り 扱いが細部まで決められており、輸 送手段が貧弱な中、大変な努力と熱 意により兵站業務が遂行されたもの と推察できる。
陸軍は兵站軽視ではない  列強に比較して国力が極めて不十 分な中、明治政府は明確な国家目標 部隊として野戦砲廠、野戦工兵廠、 砲廠監視隊、兵站糧食縦列等の部隊 (約六三〇人)が編制され、一個師団 に対してこれらの部隊が配置された。
 師団の兵站部隊には約四〇〇〇人 が配属され、師団全体の二二%前後 を占めていたが、その内訳は弾薬大 隊約一五〇〇人、輜重兵大隊約一 三〇〇人、衛生隊約四〇〇人、野 戦病院約八〇〇人であり、輸送手段 としていた駄馬は約二五〇〇頭であ った。
連隊等の部隊には大行李(糧 食)、小行李(弾薬、医療品等)担 当の部署があり、末端の兵站業務を 実施した。
 特に、弾薬に対してはその重要性 から格段の配慮がなされている。
各 兵站組織に大量の弾薬が保管され、 常続的な補給ができるように工夫さ れていた。
弾薬補給は携行弾薬、縦 次回フォーラムのお知らせ  次回フォーラムは7月16日 (金)「JITを超えてー日本的生産 方式の進化」青山学院大学天坂格 郎教授の講演を予定している。
こ のフォーラムは年間計画に基づい て運営しているが、単月のみの参 加も可能。
一回の参加費は6,000 円。
ご希望の方は事務局(sole-joffi ce@cpost.plala.or.jp)まで お問い合わせください。
※ S O L E︵The International Society of Logistics:国際ロジスティクス学会︶は一九六 〇年代に設立されたロジスティクス団体。
米国 に本部を置き、会員は五一カ国・三〇〇〇〜 三五〇〇人に及ぶ。
日本支部では毎月「フォ ーラム」を開催し、講演、研究発表、現場見 学などを通じてロジスティクス・マネジメント に関する活発な意見交換、議論を行っている。

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