ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2008年12号
判断学
金融工学の犯した罪

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

奥村宏 経済評論家 第79 回金融工学の犯した罪 DECEMBER 2008  72        サミュエルソンの指摘  ポール・サミュエルソンと言えば、経済学を学んだ人なら 誰でも知っている。
岩波書店から出た『サムエルソン経済学』 という教科書の著者として、そしてノーベル経済学賞の受 賞者としても有名である。
 二〇年ほど前、私はサミュエルソンと会って一緒に食事を したことがある。
イタリアのシエナ大学がサミュエルソンや ワシリー・レオンチェフ、そして森嶋通夫を招いてシンポジ ウムを開いたが、そのあとの夕食会に私も招かれ、一緒に 話をしたのである。
ただ、サミュエルソンの英語はわかりに くかったという記憶だけが残っている。
 そのサミュエルソンは現在九三歳になっていているが、今 も元気なようである。
というのは、一〇月二五日付けの「朝 日新聞」に写真入りでサミュエルソンの談話が六段にわたっ て大きく載っているからである。
 これは「経済危機の行方」と題したシリーズのひとつで、 今回のサブプライム危機について識者の意見を聞いたもので ある。
そこでサミュエルソンは「今回の危機は一九二九年か ら三九年まで続いた大恐慌以来、最悪の危機であることは 間違いない」と言っている。
 そしてこの危機を作り出した犯人として、規制緩和と金 融工学を挙げている。
政府が危険な金融商品や金融技術に 規制をしなかったことが大混乱を引き起こしたことは誰で も認めるところだが、もうひとつ金融工学が元凶だと指摘 しているのに驚いた。
 そこではサミュエルソンは「『悪魔的でフランケンシュタイ ン的怪物のような金融工学』が危機を深刻化させた。
表現 が長すぎるというのならば、『金融工学のモンスター』と縮 めてもいい」と言っている。
 金融工学が開発した金融新商品と新技術がサブプライム危 機を引き起こし、それを深刻化させた、というのである。
         マートンの悲劇  金融工学がサブプライム危機の元凶だというのは当然だ が、サミュエルソンがそう言ったということに私が驚いたのは、 当のサミュエルソン自身が金融工学に貢献している人物だか らである。
 サミュエルソンはマサチューセッツ工科大学(MIT)で 経済学を教えていたが、その教え子にロバート・C・マート ンという優秀な学者がいた。
マートンは社会学者として有 名なロバート・K・マートンの息子で、子供の頃から株式投 資に熱中していたという。
そしてMITの大学院で経済学 を勉強して、サミュエルソンの助手になった。
さらにサミュ エルソンと共同で証券投資論を研究し、CAPM(資本資 産評価モデル)についての論文を書いて有名になった。
 そしてマートンはMITの教授になったが、そのマートン はサミュエルソンに「若いの、もし君の頭脳がそんなに優秀 ならば、なぜ君は金持ちではないのかね」と言われたという。
証券投資論でそんなにすぐれた論文を書くのなら、なぜそ れを実践して儲けないのかね、というわけだ。
 そこでこの言葉に奮発したのか、マートンはウォール街 きっての辣腕トレーダーと言われたジョン・メリウェザー が一九九三年に立ち上げたLTCMという投資ファンドに、 パートナーとして加わった。
自分で研究した証券投資の理論 を実地に使って儲けようというわけだ。
 こうして立ち上げたLTCMは一時は大成功して、巨 額の資金を集め、高い利益率を誇っていたが、一九九八 年、ロシアの通貨危機を契機に大赤字を出して経営が破綻し、 世界中に大ショックを与えた。
 マートンの教師として一緒に証券投資論、金融工学を研 究してきたそのサミュエルソンがこんなことを言うとは!  私はこの「朝日新聞」の記事を読んで目を疑ったのだが、 果たしてマートンはどう思っているのだろうか‥‥。
 今回の金融危機を招いた元凶として、規制緩和とともに挙げられるのが金融工 学である。
アメリカで開発され流行っているこの“学問” は、証券投資でいかにカ ネを儲けるかということを目的としている。
73  DECEMBER 2008          何のための学問か  サミュエルソンが今回のサブプライム危機の元凶として金 融工学を挙げているのはまさに正論であるが、それだけに 一〇年前のLTCM危機でマートンが果たした役割、そし てその教師として共同研究し、「若いの、もし君の頭脳がそ んなに優秀ならば、なぜ君は金持ちではないのかね」とマ ートンにけしかけた責任はどうなるのだろうか。
 経済学とはいったいどういう学問なのだろうか、と改め て問いたいと思うのは私だけではあるまい。
「経済学は人び との幸せのために貢献する学問である」と大学で最初に教 えられた学生は多いだろう。
そのためにアダム・スミス以来、 多くの経済学者がその研究に命をかけてきたのである。
 それが「経済学とは金儲けのための学問だ」と教えられ たら、学生はどう思うだろう。
それ以後は大学に来なくな るか、あるいは「それならば先生はなぜ金持ちではないのか」 と、サミュエルソンがマートンに言ったのと同じことを言う のではないか。
 イギリスの女性経済学者として有名なジョーン・ロビンソ ンはかつて「経済学を研究するのは経済学者にだまされな いようになるためだ」と言ったといわれるが、まさにこれ は金言である。
 一〇年前のLTCM危機で金融工学に対する批判が一部 の人によってなされたが、当の金融工学者は全くそれに耳 を傾けなかった。
しかし今回のサブプライム危機については、 経済学の大御所であるサミュエルソンが金融工学が元凶であ ると指摘しているだけでなく、多くの論者が金融工学が果 たした犯罪について語っている。
 その犯罪の結果を巨額の公的資金、すなわち国民の税金 で負担するのだから、それは当然といえば当然だろう。
そ こでいま改めて、金融工学、ひいては経済学とは何か、と いうことが問われているのだ。
         金融工学とは  金融工学という学問はアメリカで開発され、日本にも輸 入されて大学の経済学部や経営学部で流行している。
数年 前、中国でも新しく金融学会ができ、その第一回大会が開 かれ、私はその講師として招かれて株式会社について講演 した。
その際、もうひとりの講師として招かれたアメリカの 学者が、金融工学について講演していたのを聞いて驚いた ことがある。
それほど金融工学は世界的に流行しているの だが、これを開発したのはアメリカのフィッシャー・ブラッ クとマイロン・ショールズの二人で、株式のオプション取引 理論をさらに発展させたものである。
これには経済学だけ でなく、会計学や金融論、保険論が関係するが、さらに数 学や工学という理科系の学者が参加している。
 ひとことで言えば、それは証券投資でいかにリスクを少 なくして儲けるか、ということを目的とする学問である。
 先のブラックとショールズの二人にさらにマートンが加わ って金融工学を発展させたが、そのショールズもマートンと ともにLTCMのパートナーとなった。
そしてブラックもウ ォール街で自分の理論を実践するために投資銀行、すなわ ち日本の証券会社に当たるゴールドマン・サックスのトレー ダーになった。
その後、ブラックは五七歳で亡くなったが、 残ったショールズとマートンの二人は一九九七年にノーベル 経済学賞をもらった。
 そして、その翌年にはLTCMが経営破綻し、ニューヨ ーク連邦準備銀行の斡旋で世界有数の投資銀行から総額 三五億ドルの支援を受けて救済されたが、ショールズとマー トンの二人は現在、LTCMから離れて生活しているという。
 金融工学が犯した罪がいかに大きいか、すでに一九九八 年のLTCM危機ではっきりしている。
それが今回もサブ プライム危機で繰り返されている。
しかもその被害額はLT CMの比ではない。
おくむら・ひろし 1930 年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
近著に『会社はどこへ行く』 (NTT 出版)。

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