ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
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2005年9号
メディア批評
簒奪繰り返すフジサンケイグループの歴史

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

佐高信 経済評論家 51 SEPTEMBER 2005 フジサンケイグループのニッポン放送株を 買って同グループを支配しようとしたライブ ドアの堀江貴文の奇襲は「会社は誰のものか」 という波紋を描いたが、また、旧態依然たる 日本のメディアの体質をも浮かびあがらせた。
オビに「巨大メディア簒奪‥‥歴史は繰り 返される」とある中川一徳の『メディアの支 配者』上下(講談社)は、フジテレビの会長 として堀江と対のようにクローズアップされ た日枝久が「かつてクーデターによって鹿内 宏明を追放した首謀者であった」ことを明ら かにするととともに、このグループの成り立 ちを興味深く描いている。
この本について、同グループの幹部に、 「ケンカ両成敗的に書いてあるよ」 といったら、 「ということは鹿内宏明寄りだということだ ね」 と笑っていた。
ある意味で、同グループの歴史は簒奪の歴 史である。
宏明の岳父の鹿内信隆も創業者で あったわけではなく簒奪者だった。
それが?鹿 内王朝〞と呼ばれるまでに一族支配にしてし まったのである。
専制者には当然スパイが必要になる。
鹿内 信隆にも「陸軍中野学校出身秘書」がいた。
竹岡豊である。
彼は中国・大連の特務機関長(大尉)だっ たが、日本の敗戦から五日後、ソ連極東軍の元大将、リュシコフを殺害する。
リュシコフは日本に亡命し、戦時中は日本 軍の情報協力者となって、その保護下におか れていた。
ところがソ連軍の進攻を前に、情 報協力の実態が明らかになるのを恐れた上層 部の命令で殺してしまう。
竹岡はその後、十二年間、ソ連に抑留され、 帰って来てフジテレビに入社する。
ある財界 人の紹介だった。
そして、信隆の秘書を長く 務め、総務局長になっている。
「命令とあれば戦争終結後にもかかわらず 処刑をやりとげる人物が戦後マスコミの中枢 に長くいたというところにも、このグループ の特異さをみることができる。
華やかなテレ ビの世界にまとわりつく暗い陰のひとつであ る」 『メディアの支配者』の著者はそう記し、そ の後を次のように続けている。
「かつての部下によれば、秘書時代の竹岡は 常に信隆の数歩後ろにピタリと付き従い、危 急の時には身を挺して守る役柄だったという。
そればかりか、信隆と鹿内家にまつわるあら ゆるトラブル、雑事を処理するのも重要な役 目だった」 ただ、そうしたことについて竹岡は一切口 を閉ざし、 「いまも鹿内の写真を肌身離さず身につけて いる。
私はそういう男です」 と語ったという。
信隆がつくった?王朝〞は実子の春雄の急 逝によって狂い出した。
思いもかけず、その 後継者とされた宏明に、日枝らは春雄を楯に した形でクーデターを起こす。
そこにも、さ まざまなネジレの一つがあった。
クーデターを支持し、直ちに共感を寄せた のが産経新聞OBの司馬遼太郎である。
司馬 はクーデターの翌日に、産経新聞の幹部に、 「おめでとう。
産経もよくなりますね」というファックスを送り、続いて、 「ほんとうによかったですね。
ハザマ(羽佐 間重彰)という人、めりはりのきいたいい記 者会見をしています。
『新聞の代表者として不 適任』という表現は、決定的かつ総括的で、 じつによかったですね。
?具体性を欠く〞?ハギ レが悪いのは覚悟〞というのも、いい表現で した。
すべて、欧米語のように言葉に力があ りました。
?企業の私物化〞もいい言葉です。
?排除〞というのもいい」 と第二信を送った。
羽佐間は当時、産経新 聞の社長で、日枝の兄貴分だった。
簒奪繰り返すフジサンケイグループの歴史 ライブドア奇襲を招いた司馬遼太郎的体質

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